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『硝子戸の中』

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硝子戸の中」は、解説にもあるように、漱石が「修善寺の大患」と呼ばれ生死をさまよった時期よりも後、晩年にかかれたエッセイ集である。

漱石の初期作「吾輩は猫である」や「坊ちゃん」はリズミカルでどこかとぼけたコミカルな文章だったが、前期三部作「三四郎」「それから」「門」を経て、後期三部作「彼岸過迄」「行人」「こころ」に至るころには静かな文体となり老成のようなものを感じる。最初は神経症を癒すために始めた小説が次第に稼業となり、文豪ともいわれ周りからのプレッシャーが増えたことも影響していただろうが・・・。

 

この「硝子戸の中」にはいくつもの印象的なエピソードがある。

一つには、夏目漱石が読者からの手紙や訪問に対して、やれやれと思いながらきちんと対応しているところが面白い。自分の書いた小説を読んでほしいだの、添削をしてほしいだのの人々の願いをすべてかなえるわけではないが、実際にアポをとってくる人には会うこともあったようで、漱石先生のやさしさが垣間見える。同じエピソードの中で、自らの悲恋について打ち明けたある女性に関して漱石も胸を痛める。その女性は悲しい恋の美しさと胸敗れた心をそっと抱いたまま、その場に立ち尽くして動けなくなってしまっているおり、その心持をこんな風に述懐する。

 

「私は今持っているこの美しい心持が、時間というものの為に段々薄れて行くのが怖くて堪らないのです。この記憶が消えてしまって、ただ漠然と魂の抜殻のように生きている未来を想像すると、それが苦痛で恐ろしくって堪らないのです」

(新潮社「硝子戸の中」P.21)

 

それに対し、諦念の境地に至った漱石の胸には「死は生よりも尊とい」という気持ちが往来するようになっているが、ただただ「死なずに生きていらっしゃい」と伝える。矛盾した気持ちを抱えて生きているのは漱石も同じで、だからこそ漱石の文学が長い間読まれ続けているのだと感じた。

 

もう一つ興味深いエピソードを挙げると、漱石は両親が年をとってからの子供ということで、一度里子に出されている。その後、様々な経緯から、生まれた家に戻ってくる。その際に、両親からは自分たちは実の両親ではなく祖父母であると伝えられており、漱石も長らくそう信じていた。しかし、あるとき下女からこっそり、彼らが実の両親であることを告げられる。そのことに対して漱石は、喜びを感じる。それは祖父母だと思っていた人たちが実の両親だったからではなくて、その下女が自分に事実をこっそり教えてくれるその親切さに対してだという。一度里子に出され、また実の家庭に戻ってくるということも今の時世から鑑みればなかなか衝撃的だが、そのことの心境を晩年までありありと覚えているというのも、漱石の小説家としての肥やしになっているのだろうなと感じた。

 

エッセイ集なので、漱石自体の考えや交友関係、家族との関係もよく知ることができる稀有な作品である。寂寥感と諦念が全体から香ってくるこの作品は、確かに漱石が文豪としてその時代に生きたのだなという実在感をもたらしてくれる面白さがあった。