桐島、会社やめるってよ

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『復讐するは我にあり』

先日、TBSラジオのアフター6ジャンクションで緒形拳特集をやっていたので

早速Netflix緒形拳主演の『復讐するは我にあり』を観た。

www.tbsradio.jp

 

復讐するは我にあり』は、実在の連続殺人鬼を題材にした同名小説を映画化したもの。監督は『にっぽん昆虫記』や『赤い殺意』を撮った今村昌平

ざっくりあらすじを書くと、敬虔なクリスチャンの家庭に生まれた榎津巌(えのきづいわお)は専売公社の職員2人を殺害したのを皮切りに、老人や女含め合計5人の殺人事件を引き起こす。78日間に及ぶ榎津の逃走劇を家族、特に父親との関係にフラッシュバックしながら描く。

 

映画の冒頭はいきなり榎津が警察車両で輸送されるシーンから始まる。今村監督の作品を何本か見てきた私的には、冒頭でいきなり今村ワールドだなと感じた。今村監督の映画のオープニングは、「その映画全体のモチーフを示す歌を主役が鼻歌でうたいがち」なのだが今作でもばっちり歌っていた。

「パライソの寺へと参ろうぞ」これは隠れキリシタンの歌。パライソはポルトガルで「天国」を示すという。

 

いきなりネタバレを書いてしまおうと思う。5人の殺害をし、それでも逃亡を続ける榎津であるが、通報によってとらえられ、結局死刑となる。最終のシーンは榎津の妻と父親が榎津の骨を山の上からまいて終わる。映画全編を通して、榎津の殺人の動機は直接的には語られないが、死刑直前の謁見時に榎津は自らの父親に対して、「おまいを殺しておけばよかったんじゃ」的なことを言う。これは一番殺したいと思っている父親を殺せないその情念が赤の他人の殺人へと向かったということだ。

 

父親殺しというモチーフでいうと、ギリシャ神話のオイディプス王の話は有名だ。オイディプスは赤ん坊のときに父親を殺すという予言を得たために、山の中に捨てられる。その後、結果として自分の父親と知らずに実父を殺してしまうという悲劇だが、このストーリーはあらゆる映画や小説に繰り返し登場する。また偉大な力を有する父を殺すということには古い体制の打倒とか、国家転覆、あるいは万物の創造主である神への反逆という意味合いが含まれる。この映画における榎津は、敬虔なクリスチャンであり、殺人を続ける中でも決して十字のネックレスを外すことはない。榎津はきっと映画でも描かれる子供の頃のエピソードによって父親に対して失望を抱き、いつか父親を倒すと胸に決めていたのだろう。しかしどうしても父親を殺すことのできない榎津は結局、現世の神である父親を倒すことはできず、うち敗れて死ぬことになる、という構図だと思った。

 

緒形拳シリアルキラーぶりは見ていてぞっとする恐ろしさだし、父親役の三国廉太郎は敬虔なクリスチャンでありながらどこか俗っぽさが抜けない姿が印象的。妻役の倍賞美津子もいろんな意味ですごい。えぐい映画であることは間違いなかったのだが、面白かった。

あと、最近古い日本映画をいくつか見て思ったのは、東京とそれ以外の地方のあまりの違いっぷり。東京はみながお上によって定められた標準語を話し、指名手配なんかも手厚くされている。結局榎津が捕まるのも、東京における監視社会的な構図によっていると思う。その一方で地方はみながごてごての方言で話し、どこか牧歌的な雰囲気が残る。榎津も地方でその地の風習にそまりきってしまえば捕まることはなかったのかもしれない。

その意味で、戦後の新しい時代のお上による管理社会において捕まるというオチ自体が結局この世界の支配者からの支配からは逃れることができない、という人間性の隷属性にもつながっている気がした。