桐島、会社やめるってよ

読んだ本や見た映画についてのアレコレ

『ザ・ホワイトタイガー』

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インドの低い身分の家庭に生まれたバルラムは、裕福な家族の運転手になり、人に使われ続ける人間の理不尽さに初めて憤りを感じるようになる。雇い主が起こした交通事故の責任までも一人負わされそうになることに憤慨し、今まで抑え込まれていた野心が沸き起こる。身分の低い人間が、いまだにカースト文化の根強いインドでいかにのし上がっていくかを描いた映画。

 

以前、TBSラジオの「たまむすび」で映画評論家の町山智弘さんが、本作を紹介しており、非常に興味深いと思ってみてみた。「きっとうまくいく」とか「マダム・イン・ニューヨーク」もあまりはまらなかった私的には、あまりインド映画が好きではないのだと思っていたけど、本作はそのイメージを大きく覆してくれる非常に面白い映画だった。主人公は「人に使われること」が自明の運命として、何も疑わない家族に生まれる。搾取と無抵抗が当たり前で、いわば檻の中の鶏で屠られて食べられる。しかし、アメリカ帰りでカーストとはあまり意識させないアショク・ピンキー夫妻の元で働くうちに、それがどこかおかしいことに気付き始める。

面白いのは、アショク・ピンキーでさえも、実は無意識のうちに、バルラムを同じ人間扱いしているわけではないことがわかってくる。平等といいながらも、実は貧富の差が人間の価値だと思い込んでいるような節があり、バルラムを人間扱いしていない。

その構図に気付くバルラムは次第に、その檻から抜け出すことを考える。一世代に一匹しか生まれないというホワイトタイガーのように。

 

インドのカースト制のおそろしいことは、貧しい人は例えば歯磨きをする、ということや、人前で股間をかかないとかそういう社会の常識と思われていることが低い身分の非人たちの間では当たり前ではないということである。単に、教わらないということが、身分の固定化を促進する。日本でもそこまで極端ではないにしても、やはり一定以上の所得がない家庭では、映画を見たり、オーケストラの生演奏を聴きに行ったりという文化的資本を受けられない子供たちが生まれていく。その文化的資本の差が、結局は「知っている」「知らない」の差を生み出していく。バルラムのように、悪事に手を染めながらも生きるすべを見つけていく野心の力強さを身に着けるのは非常に難しい。だけど、だからこそ、そんな人間の底力を見ると、勇気をもらえるような気がする。

パーソナルトレーニングというやつに行ってきた

退職が迫る中で、毎週金曜日を有給消化にあてているので、その時間を使ってパーソナルトレーニングに行くことにした。

今日は体験を受けて、そのままあれよあれよという間に入会してきたので、どんな感じだったのかについて書く。

 

そもそもなぜパーソナルトレーニングを受けようと思ったかというと、姿勢が非常に悪くなっているという認識があったからだ。

ヨガでよく長座の姿勢をとるのだが、お尻の位置がいつも気になり、つま先を手で支えないとまっすぐ座れない。思い返してみれば、中学生くらいまでは体育の授業中に長座で座るというシチュエーションがよくあった。その時は違和感なく普通にできていたのに、社会人になって長座ですわるとなんだか違和感しかなくて、「どこかがおかしい」。

背中が丸まっているだけなら、ピンとのばせば正しい姿勢はとれる。だが、今正しい姿勢をとって立ってみて、といわれても何が正しいのかわからないという状況である。

 

選んだジムは家から徒歩で5分程度で、こじんまりとしたジム。ついてみると、マンションの一室みたいな感じで、中には若いトレーナーが一人。家族以外の生身の人間と話すというシチュエーションに若干緊張。

 

その後、簡単にヒアリングを受けて、早速トレーニング開始。

まず鏡の前にまっすぐ立つように言われる。

そこで、すごく恥ずかしいことに、うちの父親のような姿勢になっていることを指摘される。つまり、ひざが出て、肩が丸まってしまうゴリラ姿勢である。

また、おなかが前に出てしまいお尻と太ももの裏側の筋肉が使えていないとのこと。

あと、どういう状況かわからないけれど膝も曲がっているけど、他の部位で支えている結果、ひざの関節にはあまり負荷がかかっていないということらしい(この説明を書いても意味不明である)。とりあえず、今の運動不足のままでデスクワークを続けていたら30年後くらいには、超絶姿勢が悪いゴリラ人間(メス)が完成されていることが容易に想像されてしまった。

これだけで、「トレーニングを受けねば・・・」という気持ちに。

 

その後、ストレッチポールで背面を伸ばしてから、お尻や太ももの裏を鍛えるトレーニングを教わる。腹筋を鍛え、スクワットを教わり、簡単な有酸素運動をしたあとに、スポーツストレッチを受けて終了となった(ちなみにスポーツストレッチはマッサージのような感じで痛気持ちいい)。

 

ちなみに、トレーナーは(たまたまだけど)若い男性で、腹筋をするときに足を軽く押さえてくれたり、丸まった肩をストレッチしてくれたりして、家族以外の男子と話すという状況にやけにドキドキしてしまい、それもまた楽しかった(若干アウトな感想)。

なんというか、そういうシチュエーションに喜んじゃうのもちょっと年を取ったなあ、と実感した。

 

不純な動機をかかえつつも、本望は曲がった姿勢を治すということを念頭に置き、2ヶ月ほどしっかりトレーニングしてみたい。

 

 

 

 

『コロナと生きる』

『コロナと生きる』は思想家の内田樹さんと感染症の専門家の岩田健太郎さんの対談をまとめた本。出版されたのは2020年9月で、まだワクチンも完成されていなかったころなので、最新の情報ではないのだけれど、ひざを打つような社会への視座にあふれていて、マーカーで何度も線を引いた。

 

新書では情報が古かったり、結論ありきで話が進んで読んでいてわくわくする、という感覚を持つことがあまり多くなかったのだけど、内田先生の本はどの本をとってもインサイトフルな感じがする。こういう自分の血的好奇心が沸き立つような文章の書き手というのがいてくれて、本当にありがたい。

 

面白いなと思ったのは、なぜ日本の感染症対策が行き当たりばったりで、各施策の目指す方向性がわからないのかについて考えたところ。中国や韓国で猛威を振るったSARSや2009年の新型インフルエンザの影響が日本で小さかったのは、日本の水際対策がすごかったのではなくて、むしろ運が良かった、ということに帰結するという。それで、今回は様々な要因が重なって全世界的なパンデミックになった。SARSで身をもって学んだ中国や韓国は政府から独立した感染症対策の機関を立ち上げて、今回もシビアに対応が進んだ。

 

アメリカを見てみれば、医療サービスが公共のものではなく、市場の商品となった結果、貧困層や無保険の人々が治療を受けられなかった結果、人々に感染が広がった。結果として世界のナンバーワンの大国でいながら、ダントツの感染者を出した。しかし、その後ワクチンの開発が完了したあとは、びっくりするほど迅速に接種が進んだ結果、ある一定程度のいい結果が出始めている。一方で日本ではワクチン接種は遅々として進まず、いつになるのかもわからない。

アメリカはそもそもの建国趣旨が、「こういう国をつくりたい」というビジョンからスタートしている。だからこそ、今回の感染症対策でも、理念を作り、現実化するというアメリカの歴史が踏襲されているという。

一方、日本では、過去の法律に基づき、前例踏襲を続けている。この感染症をどうしたいのか、というビジョンがわからない。それもそのはず、厚労省の担当者は2年や3年で部署移動していくからだという。それでは確かにビジョンは生まれないし、責任の所在はわからない。日本社会の弱い部分が今回の異例ともいえる状況で露呈してしまっている。

 

考えてみれば、2011年の東日本大震災から思い返してみても、熊本地震や千葉の台風被害、北海道の地震、そして今回のパンデミックと、異例な事態が高頻度でやってくる。非常事態が常態化する社会でどう生きていくのか、考えていくためのアイデアをもらった気がする。

『透明人間』

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ずっと見たいと思っていた映画がアマゾンプライムビデオで見られるようになっていたので、さっそく鑑賞。

入念な計画の元、モラハラ夫から逃亡したセシリア。セシリアが去ったあとに、夫のエイドリアンは自殺したと聞いたものの、常に夫の視線を感じるようになる。死んだはずの夫が自分を監視していると主張しているセシリアに対して周りの友人や兄弟たちは、セシリアの精神状況を疑い始めて・・・という感じ。

 

冒頭の逃亡のシーンから、もう「こわ・・・!」という感じ。あと、何もないところにカメラの焦点がしばらくあったりと意味深なカメラワークに、ドキドキしっぱなしという。そして、夫の視点の正体がわかったときの「うわあ、気持ち悪い」というところまで、見る側をとことん楽しませてくれた。

昨今のMe too運動の影響もあってか、戦い抜いた女性のりりしさ、美しさが際立つエンディングで、映画らしいスカッと感も得られた。

 

セシリアを演じるエリザベス・モスも、すごくきれいにみえるときと心がすさんでいるときの格差がすごくて俳優はすごいなあ・・と圧巻させられた。

あまり知られていない俳優たちが出ていても、興味を持続させる映画って面白いなあと改めて思った。

最近読んだ本(4月後半)

最近はまた読書欲が高まってきたので、図書館にいってもいい本が見つかる。

 

①『謎のアジア納豆:そして帰ってきた<日本納豆>』高野秀行

我々日本人は、よく外国から来た人に対して、にやにやしながら納豆を食べさせ、「味はうまいけど、臭い」とかしかめつらでいうリアクションを見るのが好きである。納豆といえば、日本が世界に誇る唯一無二の伝統食品だと思われがちである。しかし、なんと、アジア各地、とくに辺境の地域において日常的に納豆が食べられているのだった・・・。たまたま取材旅行で訪れた先で、納豆に出会った高野さんは、どういう地域に納豆があるのか、納豆がつくられるようになった背景、はたまた我々日本人が食べている納豆とはなんなのか・・・あらゆる方面から柔軟な思考と行動力で思考する。その過程がめちゃくちゃ面白い。常識だと思われていた事象がそうではないと知るときの目の前が開く感じ、それが読書の醍醐味だと感じる。

 

②『ミャンマーの柳生一族』高野秀行

出たー。また高野さんの本。最近は図書館に行くたびに、高野さんの本を自然と見つけることができる特殊能力が身についているような気がする。ちなみに、高野さんの本は(あくまで、私がよくいく図書館の場合だけど)置かれているジャンルがばらばらなのも面白い。上で紹介した『謎のアジア納豆・・・』は食文化の場所にあったし、本書はアジアの歴史コーナーだった。最近はミャンマー民主化デモが激化しているけれど、この本が書かれたのは2006年なので、今とは違うけれど、この本を読むと「さもありなん・・・」というか。この本は、高野さんが大学時代に所属していた探検部の先輩で小説家の船戸与一と2人でミャンマーに取材旅行に出かける。しかし、ミャンマーは軍部が政権を担う国で、しかも2人の取材に対し監視役を送り込む。次第にその政権のなりたちや諜報員を使う方法などが、実はミャンマーという国は、日本の江戸時代のような武家社会なのでは?という考えに行きつく。そして、諜報員はその性質が江戸時代に暗躍した柳生一族のようであると・・・。道中のドタバタ具合はあまりにコミカルで、もともとは監視役と取材者という関係が同士のような関係性になっていくのも面白い。

 

 

③『一神教と国家 イスラームキリスト教ユダヤ教内田樹中田考

期待を裏切らない内田先生の本。内田先生の本の面白いところは、ページをめくるたびに、知的好奇心が高まっていくこと。世界で起きていることを独特の視点から掘り下げる。また、対談形式の本だと、相手の返答に応じてその思考の鋭さが増していくようで面白い。この本では自身もムスリムイスラーム学者の中田先生との対談。面白いのは2人の主張が一見すると正反対のようでありながら、相違や一致点を見つけて、お互いの意見がより分かりやすく展開されていく。よく一神教多神教を比較して、多神教の方が柔軟で優しい宗教であるという意見がある。一神教の戒律の厳しさというのは、生身の身体に即した宗教であるから、というところがすごく府に落ちた。一神教が根付いた地域はもともと砂漠の民、もっといえば遊牧民であったため、一人では生きていけない。だからこそ民族的・宗教的ネットワークが強固になる。喜捨や寄付が当たり前で共生がデフォルトになる。その上で、厳しい環境を生き抜くために、厳しい戒律やルールが生まれていく。ほかにも書ききれないけど、今のイスラームの課題を知ることができたとともに、グローバリゼーションに抵抗するためのイスラームという構造が面白かった。機会があれば再読したい。

『愛がなんだ』

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角田光代さん原作の『愛がなんだ』の映画化。

数年前に話題になった本作が、Netflixで見られるようになっていたので、早速みてみました。主人公のテルコはパーティーで馴染めない同士、意気投合した田中守に片思いしている。電話で呼ばれればすぐに飛んでいき、かいがいしく食事を作ったりと「ザ・都合のいい女」ポジションにいる。決して彼女のポジションにはいけないのだけど、守のそばにいられることに喜びを感じ、次第には仕事もクビになってしまう。出てくる登場人物は誰もが、誰かに片思いしていて、その恋心は報われることはないのだけど、もはや愛って報われることではないんじゃない?という境地にいきつく。

 

筋書は原作に忠実で、しいて言えば、原作の守はもうちょっとイケメンじゃない印象。小説を先に読んでいたので、なんでテルコは守に夢中になるのか自分でもわからない。そういうところに納得感というか愛の不可思議さが伝わってきた。そういう意味では、まあ、映画版で守を演じた成田凌さんは想像していた守よりも顔面が整っていらっしゃるので、ちょっと違う・・・・?と思いつつ、少しずつ慣れていった。成田さんがわりとアウトサイダーな役柄を演じることが多かったからいいのかも。

 

私的には、多かれ少なかれテルコの気持ちもわかるようなわからないような、という感じなのですが、友達はどうなんだろ。これはみた人同士であーだこーだ話したくなる映画でした・・。

『ガーンジー島の読書界の秘密』

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久しぶりにNetflixで映画を見たので記録。

ガーンジー島の読書会の秘密』は第二次世界大戦中にドイツに占領されていた英国ガーンジー島での秘密にまつわるミステリー。

ガーンジー島ではドイツ軍の抑圧が激しく、文化的な活動という名目のもとで、ひそかに社交していたガーンジー島の男女が読書会を開く。ジュリエットがかつて手放した本がまわりまわって、その読書会の参加者ド―シーの手に渡る。戦後、本に残されていたメモから文通がジュリエットとド―シーの文通が始まり、ジュリエットは次第に読書会に魅了されていき、ガーンジー島を訪れ、読書会のメンバーとの交流が始まる・・・。

 

舞台は第二次世界大戦後のイギリスなのだけど、物語はすごく現代的。

まず主人公のジュリエットは物書きとして生計を立てる自立した女性。アメリカ人のマークと婚約したのちに、単身ガーンジー島にわたるが、その行動がジュリエットの人生を変える。従属的とみなされていた女性が、この映画では、自分の意思と能力で人生を変えていく。さらに、ネタバレになるけれど、最後、ジュリエットはド―シーと結ばれる。その際に、プロポーズを申し込むのはド―シーではなくジュリエットである。常に、人生のたずなを話さないジュリエットのウーマンパワーがさく裂。

昔、はまって何度もみていたキーラ―ナイトレイ主演のプライドと偏見では、知的で自立した女性のエリザベスが結局は最後ダーシーのプロポーズを受け入れる。あくまでも、プロポーズされることが物語のエンディングにしてハイライトであった点と比べると、同じイギリスを舞台にした物語であっても、現代っぽいアレンジがなされているように思われる。

 

クラシックな役柄を演じる若手イギリス人女優といえば、キーラ・ナイトレイみたいな印象が十年前くらいはあったけれど、最近は本作の主演、リリー・ジェームズもよく見る。リリー・ジェームズは、上品さや利発さみたいなものとどっしりとした安定感も感じる(ほめてます)すごくいい俳優だなあ、と改めて思った。

 

物語の展開は少し退屈な場面もあったものの、自然豊かなイギリスの離島の美しさや、クラシカルな服装等、目で見て楽しい場面も多くあり、楽しく鑑賞した。