桐島、会社やめるってよ

読んだ本や見た映画についてのアレコレ

『彼岸過迄』『「文豪とアルケミスト」文学全集』

いよいよ休職期限も過ぎ、明日にも復職となった。

おまけに、どのように復職するか具体的な職務について話すために今日の夕方にチームメンバーと電話で話すことになっている。夏目漱石作品における「高等遊民」を地でゆく1ヶ月強も本日までという事実に深い悲しみを感じている。

 

昨日読んだ夏目漱石の「彼岸過迄」は不思議な作品であった。

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新潮文庫の解説でも書かれているように主人公として描かれる敬太郎は「吾輩は猫である」の猫と同様に、自分の周りで起こる物事に耳だけ突っ込んでその全体像を読者に伝えるメッセンジャーとしての役割を担っている。その意味では「こころ」の「私」とも同じ存在かもしれない。

 

彼岸過迄」の事実上の主人公は敬太郎の友人である須永である。須永も敬太郎も学校を出てもふらふらしているような高等遊民である。敬太郎はどこかすっとぼけた冒険を夢見る男なのに対し、須永は自分のいとこである千代子との関係に思い悩む。

物語が進むにつれ、須永の神経を煩わせているのは千代子との関係だけではなく、母親との関係、ひいては自分自身との関係にまで根深くつながっていることが明らかになる。彼岸過迄はほかの作品と比べても何も起こらない不思議な作品である。千代子とも母とも自らとも何の解決もせずに少しだけ希望が見えるような形でさっと終わる。この小説は、敬太郎が友人須永が思い悩むすべてのことにぴんと来ないままにこの後の物語がどう動くだろうか、と考えて終わる。敬太郎の幸せなところはこのすべてにピンとこないところであり、漱石自身も時には彼くらいに鈍感であったらどれだけ幸せだっただろうかと考えたに違いない。

 

彼岸過迄」を近所のカフェで読み終え、その足で図書館に向かった。

目的もなく棚の端から端まで眺めると思いもよらない出会いがあるという経験があり、その効果を期待してのことだった。今回借りて読んだのは『「文豪とアルケミスト」文学全集』

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スマホのゲームアプリで「文豪とアルケミスト」というゲームがあり、その登場キャラ」が明治大正あたりの文豪らしい。ただ、こちらの本はそのゲーム色はほぼなく、漱石と芥川の書簡や、太宰治逝去の際に坂口安吾が寄せた追悼文、その他谷崎潤一郎の分断昔ばなしなど、ユニークで面白い本だった。

 

関係性で言うと、芥川は小説「鼻」が漱石に激賞され、漱石の書斎で催される木曜会のメンバーとして、漱石を先生と慕っていた。谷崎は一高に通っていたときに漱石も一高に教師として在籍していたという。漱石に授業で教えてもらったことはなかったが、学校の廊下で会釈をする関係ではあったという。また、谷崎と芥川は小説の技術に関し、紙面上で議論を闘わせ、泉鏡花なども含めて食事をするいってみればいい先輩後輩の関係だったという。芥川が亡くなった際には、追悼文を寄せており、その中で亡くなる直前の芥川の神経がたたっているのをもっと気にしてやればよかった、というようなことを書いている。

 

夏目漱石:1867年2月9日(慶応3年1月5日) - 1916年(大正5年)12月9日

谷崎潤一郎1886年明治19年)7月24日 - 1965年(昭和40年)7月30日

芥川龍之介:1892年(明治25年)3月1日 - 1927年(昭和2年)7月24日

 

明治大正昭和に活躍した文豪と言われる小説家たちの面白いところは、故人となり、書簡等が表に出てきて、その人となりが小説と合わさって浮かび上がってくるところにあると思う。本人にしてみれば、ごくごく個人的な書簡やノートなどが公になることは本望ではないかもしれないが・・・。