桐島、会社やめるってよ

読んだ本や見た映画についてのアレコレ

社内ニート論

社内ニートという聞き捨てならない言葉がWikipediaに登録されていることを知った。

さらに、Googleで「社内ニート」とうつと予測変換でそれに続いて「うつ病」や「辛い」など心がざわざわする言葉が続く。その下に「過ごし方」やら「転職」、さらには「開き直り」という言葉が連なる。思うことがあったので忘れないうちにここに書いておく。読むべき内容は特にないということを最初に断っておきたい。

 

リモートワークが始まっておよそ半年後に、私は非常に暇になった。

というか、もともとゆとりのある仕事をしていたのだが、3ヶ月ごとに一定以上の負荷がかかる忙しい時期があったので、「暇すぎてそろそろ辛い」という事実が若干曖昧になるというだけであった。

 

しかし、私が暇すぎる社内ニートであるという事実は半年前ほどに現実に突き付けられた。厳密にいうと、暇であるという事実と突発的にやってくる難易度の高い仕事のコンボが精神的にきつい。普段は暇すぎて「なぜ周りの人はこんなに忙しそうにしているのに、私はこんなに暇なのか。申し訳ないし私って仕事ができないのでは?」という感情が堂々巡りするために、自尊心がえぐられる。その後、お手上げな仕事が降ってきて(簡単にいうと面識のない外国人とオンラインミーティングで進めるお仕事)、自尊心の低下に拍車がかかる。

そんなループが3ヶ月ほど続いたときに、「この仕事きついわ」とふと思って休職したのはすでに過去のブログで書いたとおりである。これがまさに「社内ニート+うつ病」「社内ニート+辛い」の状況である。

 

1ヶ月休んで仕事に復帰したわけだが、私がいなくても通常通り業務が回っており、正直あの突発的に降ってくる仕事はなんだったのかという虚無感に一瞬苛まれた。

しかし私の会社は非常にホワイトなので、とりあえずのリハビリを兼ねて、暇な方の仕事だけ今は担当している。したがって、私は今は謎に難易度が高い仕事からは逃れた「ただ、暇な人」という状況を謳歌している。こんな状況でも私のポジションが無くなることがないのは、この「暇な仕事」をカバーするだけの手が足りていない、すなわち会社が業務の配分を適切に行えていないことを意味し、私が暇なのは私に起することではない。

ということで、今日も私は必要とされる仕事をだけして、あとはのんびり過ごす。自らの自尊心が削られないように怒涛の勢いでブログ記事を書いている。今日のブログ投稿数が多いのは一重にそういうことである。ここでハッと気づいた。今が「社内ニート+過ごし方」のフェーズである。社内ニートという情けない言葉に心を病んだまじめな人間はその回復とともに次第に前向きな考え方を始める。今ある現状を打開したい人は「社内ニート+転職」だろうし、私みたいなドラスティックな変化を求めない人はまさに社内ニートの肩書のまま、例えば資格の勉強をしたり、手に職をつけたりし始める「社内ニート+過ごし方」状態である。

だから、私が目指すべきは最終系の「社内ニート+開き直り」である。そこにまで至れば無敵である。

 

堕落論」で坂口安吾は「生きよ堕ちよ」といった。

これは古い価値観にとらわれた人間の開放を説いた本だったが、仕事の分配の偏重という外部要因によってもたらされた苦しみを自らのせいとして苛まれる現代人もその苦しみから逃走すべきと考える。